印鑑の耳より情報集めました
児童文学の傑作のなかには、子どもの病気が契機になって、深い内面的体験が生じることが描かれている作品が多くある。
そのなかで一冊だけをあげておくと、『マリアンヌの夢』という作品がある。
他に詳しく論じたので、そちらを参照していただくとありがたいが、マリアンヌという少女が病気の間に、夢のなかで冒険を繰り返し、少女としてふさわしい内面的な成長をとげてゆく物語で、彼女にとって、病気はほんとうに意味あるものとなったのである。
学校を意味するラテン語エコールは、もともと「暇」という意味をもっていた。
学問というものは暇なときにするものだ、というよりは、暇こそが真の学問を生み出す、と考えるといいだろう。
深層心理学には、「創造の病い」(creative illness)とか、「創造的退行」(creative regression)という考えがある。
病いの意味についてはすでに述べたが、病いによる内的体験が創造活動に結びつくという事実によっている。
創造的退行とは、創造活動に従事している人が、ときに幼児的になったり空想にふけったり、ぼんやりとしたりしているときに、すばらしい着想や考えをもつ事実を指している。
エジソンが子どもの頃に「怠け者」と思われていたことなどは、こうしたことを端的に示しているだろう。
子どもの頃から、彼は「創造の遊び」の世界にはいり、それは外から見ると「お勉強」ではないという意味で、「怠け者」と判断されたのである。
遊戯療法という心理療法は、その中核に自由な遊びがある。
いろいろな問題をもった子どもが遊戯療法によってよくなっていったとき、「先生はどのような指導をして下さったのですか」とか「何を言いきかせて下さったのですか」と言われることがよくある。
大人たち(特に教育者と言われる人たち)は、指導したり、言いきかせたりすることが好き過ぎる。
自由な遊びのなかに、子どもの創造活動が現われ、それを通じて子どもたちは自ら癒され、自ら育ってゆくのである。
遊びによって子ども時代に養われたイマジネーションのはたらきは、成人してからも創造活動をするときに、そのベースとなっている。
「お勉強」で固められ、遊びの少ない人間は、成人してから創造的な仕事を達成できないのである。
死からの展望人生を、生きる側からだけではなく、死の側から見てみることも必要である。
本書のはじめの方に、自殺未遂をした医者の例をあげた。
この母親にとっては、自分の息子がいつも一番で、先へ先へと進み、出世してゆく姿のみが目に浮かび、それを「死」の側から見ることなど思いも及ばなかったのではなかろうか。
もし、この人が自殺して死んでしまったとしたら、この母親は、「あれほど勉強勉強とばかり言うのではなかった」とか「もっと好きなことを遇せてやればよかった」とか、思うことだろう。
人間は必ず死ぬ。
しかし、このことを案外忘れているのだ。
もちろん、四六時中、死のことを思っているのもたまらないが、ときに、死んでゆくものとして自分を見、子どもたちを見てみる。
このことによって、子どもの教育に対する大人の態度が少し変わるはずである。
ともかく、カッカツ、イライラした態度は、少し緩和されるのではなかろうか。
子どもたちは、大人の思っているよりはるかに、死について思っている。
ただ、大人に言ってもはじまらないことを知っているので、黙っているだけである。
現在、子どもたちの間で、「霊」に対する関心が非常に高くなっているのを御存知だろうか。
特に女子中学生や高校生の間では、このような話題でもちきりである。
これは大人たちが死の問題を考えるのを怠けていることに対する反動として、受けとめられるように思う。
教師としての自分も死に、やがて子どもたちも死ぬ。
死後の世界で再会したときに、先生の教えは役に立っていますとか、ありがたいとか言ってもらえるような教育とは何だろう、などと空想してみるのもいいかもしれない。
共通一次試験に代わって実施された大学入試センター試験の点を少しでもあげるために、教師も努力しなくてはならないだろうけれど、それだけではなく前記のようなイマジネーションをふくらませることによって、教育に味わいがでてくる、と思われるのである。
教育にゆとりをもたせ、生徒たちのほんとうの幸福を願うのなら、親も教師も、もっと多様な価値観をもつべきではなかろうか。
学校では「勉強」、社会では「お金」という、数字によって一様に序列づけられるもので、その価値を測るのではなく、もっといろいろな尺度をもって、子どもたちを測ることを考えてはどうであろう。
そんな際に、「臨床」の視座としてあげておいたことは、少しは役に立つのではなかろうか。
子どもたちの多様で豊かな姿が見えてくるし、その評価も変わってくる、と思うのである。
豊かな可能性をもった子どもたちが。
大人の一様な価値観に災いされて、みすみすそれを壊されてゆくのは、見るに忍びない感じがするのである。
臨床の視座として述べたことについて、われわれはそれを深める努力をしなくてはならない。
勉強も大事だが遊びも大事ですよ、というような安易な並列では意味がない。
遊びとは何か、遊びの本質とは何かという問いかけを、自らに課す姿勢が必要である。
このように考えると、遊びの哲学、死の哲学、そして、病いの哲学をも必要とされると思われるのである。
事実、オランダやフランスなどの遊びに関する省察は、われわれの視座を深めることに役立ってくれる。
そのような助けをかりたりして、臨床の目を鍛えてゆくことが、教育をより豊かにしてゆくために必要なことと思われるのである。
人間のことを考えるのには、いろいろな原理がある。
ひとつの原理によって説明することは、単純でわかりやすいが、それはともすると実状に合わなくなるのではなかろうか。
一党独裁が危険であることは、最近の世界の情勢がよく知らせてくれたことである。
すでに述べたように、生と死、健康と病気、仕事と遊び、などの対極的な見方の、どちらか一方に片寄らず、ものごとを見てゆくことは、教育にとっても大切である。
ここにもうひとつ特に取りあげたいのは、私が父性原理、母性原理と呼んでいる、対立するものの考え方である。
この呼び名はわが国では、ときに誤解されるのだが、欧米の人たちに言うとよく通じるようだ。
それは、ここに言う父性原理は、後でも言うように西洋に発達してきたものなので、そもそも日本人にはわかりにくいのである。
これらの原理はどちらが正しいとか誤りである、というのではなく、まさに一長一短であると私は考えている。
ともかく、それがどのようなことかを次に述べる。
原理の混乱 高等学校で、ある生徒が校則を破る。
その程度がひどいときは、処罰が職員会議で論じられる。
片方は、悪をはたらいた限り処罰は教育的に考えても当然という。
他方は、そのような悪い生徒だからこそ、教師がかばってやるべきで処罰などせずに、皆で包みこんでやるのこそ教育的だという意見が出される。
前者は善と悪とを明確に区別してゆく原理に立っているのに対して、後者は善悪の区別よりも、全員が包まれて一体となってゆくことを原理としている。
私はそのどちらが正しいなどとは、簡単には言えないと思っている。
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